昨日は昼から、西本願寺の南隣にある興聖寺へ行ってきました。2ヶ月に1度のひろさちや先生の講演会です。と言っても、残念ながらこの講演会も今日を除くとあと1回で終了してしまうのでした。孝三先生のドラム道場にも通えなくなったし、ひろ先生の講演会も終わってしまうという事で、これからは寂しくなるなぁ……としみじみと思うのでした。いや、それより逆に、ボクのプロフィールの「3大師匠と思ってる人」っていう所に書いてある、大尊敬する3人の内、2人に定期的に接する事が出来たっていうのは、今迄がラッキーだったと言った方がいいのかも知れませんですが。
今日のひろ先生の話は、2時間半を超えるヴォリュームたっぷりなもので大満足でした(ただ、録音するのに持って行ったMDがモノラル・モードでも足りなくなってしまったのが残念でしたけれど)。その中でも漢字の話とかが面白くて、例えば仏教で「あきらめる」っていうのは良い意味だという話で—-まぁこれは「仏教で」って付けなくても、辞書で「あきらめる」って調べると、悪い意味の方が少ないらしいのですが—-これは「明らめる」、つまり「物事の真理を明らかにする」という意味で良い意味なのですが、この「明」という漢字は「日」と「月」が二つとも入ってるので、「太陽」と「月」でもの凄く明るいイメージを持ちですよね。でも、実はそれは間違いで、「日」は実は「太陽」の意味じゃなくて、窓という意味の字が変形して出来たものなんだそうです。意味は「窓から入ってくる月明かり」という事で、太陽光線の下で女性の肌を虫眼鏡を使って見るような見方をするんじゃなくて、窓越しの月明かりでぼんやりと見るくらいの感じで物事を見る様な見方をするのが、実は「明らめる」という事なのだという様なお話。なるほど!
それから、質疑応答の質問で出た「神道」の話との絡みで、民俗学的な話も非常に興味深いものでした。正月の仕組みとかは本当に面白かった。どうして「祝い箸」はあぁいう形なのか……とか、「お歳暮」とか「お年玉」の意味とか。あと、日本に限らず、だいたいの民族は普通1日の始まりを太陽が沈む頃からに設定してあるので、正月のおせち料理っていうのも、本当は大晦日の夜から食べるのが一般的だったんだとか。この習慣はちょっと前までは、長野県の1部でまだ残っていたのだそうですが、今はほぼ無くなってしまったらしいです。「クリスマス・イヴ」っていうと「前夜」っていうイメージですが、実はあれも本番だったという事なんですね。という事は、お祭りの「宵宮」っていうのも本番が始まってるという事なのでしょうねぇ。