ボクの中にある強烈な記憶のひとつに中学生時代の体育祭のものがあります。全校生での入場行進の練習の時に、「左、右、左、右」ってやってる時です。体育の先生がお決まりの「1拍目は左足から」って言うので、そのとおりに行進してたのです。周りを見渡すと、全員が逆。一瞬自分の中でも「長いものにはまかれるもんだせ……けけけけ」という悪魔の囁きがあったのですが、いや、自分は正しいのだから……と思って、そのまま行進してたら、マイクで思いっきり怒られたという経験があるのです。
この原体験のおかけで、ボクは体制に付く賢い人間になったかというと、やっぱり逆なのでした。でも、原理主義的にガチガチにいくのはとても無理なのですね。
昨日、とある方のお通夜がありまして、行ってきました。この辺りも実はかなりおかしいことになってはいるのですよね。まづ、お通夜も葬式も、本来は家族だけでやるものです。でも、今ではボクみたいな故人に会った事のないものまでが参加出来るイヴェントの様になってしまってます。このあたり、金になると鼻を鳴らしてる葬式産業が率先しているのかもしれないですね。それに喪服。喪服というものは喪に服する人が着るものです。つまり遺族側のものであって、喪に服してない人が着るものではないのですよ。この辺りは紳士服業界が関係あるのか? でも、この辺りまでは、大人の事情でどうしてもしょうがないものです。
そんな事を考えながら、お焼香の列にならんでると、お焼香を終えた人とすれ違います。すると、その方々におしぼりを渡してる人が居ますよね。あれ、なんでそんなものが必要なのだろう? って疑問なんですよ。香の粉が汚いとでもいうのか! って感じです。これは明らかに過剰サーヴィスじゃないですか? もう、こうなると明らかに資本主義スタイルの葬式ですよね。そういう悶々として気持ちでいると、ひとりの男性が「結構です!」っておしぼりを断って行くじゃないですか。ボクは心の中で「えーぞー」と拍手をしましたですよ。
人の焼香の様子を見ていても、何で3回もするのか、何でいちいち頭の所までもっていくのかよく分りませんですね。焼香の意味は死体の臭いを消すためなので、何回もやるのは失礼な話です。頭の所にもっていく必要もないです。ボクはこの辺りはどうしても、人がそうしているからっていう理由で合わせるのは嫌なので、焼香は1回きり、頭の所にも持って行かずにしました。後ろで待ってる年配の人から「まぁ、最近のお方は作法も知らないのね……」なんて思われてても、全然知ったこっちゃないです。勝手に言ってろってなもんです。後は、ちゃんと合掌。勿論、おしぼりは辞退しましたですよ。帰りの車の中で、そこはかとなく香の臭いがして、なんともいい気持ちでした。
今日もテレビを見ていたら「道徳教育が必要」みたいなのをしていて、「けっ!」って思ってしまいますね。道徳っていうのは何かっていうと、行進であの体育教師がした事です。つまり、絶対的に正しい事じゃなくて、「今、正しい事」が道徳なのですよ。100人中99人までが「右、左、右、左」で行進するのが正しいとしたら、それが正しくなるのが道徳です。これは「いのち」についても同じ。例えば、100人中70人80人が「人殺しに賛成」となれば、それが道徳なのです。それを「道徳教育で『いのち』の大切さを!」なんて何をバカな事を! って話ですよ。実際に多数決によって死刑という人殺しをしてるのは、まさにあれが道徳なのですよ。悪い事をしたら死刑になりますよ! その論理で「いのち」を語るな!