パザ日誌


2003年3月30日 (日曜日)----すぎもとともひで

ボクが仏教徒になった時

キリスト教とかで「信じるものは救われる」という言い方をしますが、これは大きな間違いらしい。これでは、人間側が主で神が従になるので、絶対神を信じるキリスト教がどう考えてみてもそんなおかしな考えかたをする訳はないでしょう? 宗教なんて信じよう信じようとして信じられるものではないですが、必要な時はすんなりと入って行ける時がくるものです。

で、「信じるものは救われる」の本当の意味は「救われるものは信じる事が出来る」なのだそうです。そう考えればまさにその通り。でも信じるというのはとても難しい事なのですが。

ボクが仏教徒になったのは、オウムの事件の頃。昔から宗教というものに持ち続けた違和感が、この事件で自分の中で大爆発した時だったのです。「何で宗教と言うのはこんなにおかしな事になるのか?」という思いから、当時行きつけのスタジオでバイトしてた、龍谷大学に通っていた浄土真宗の寺の息子に論争でもふっかけてやろうかと、ダイエー藤森店の近くの本屋さんで仏教の本を手にしたのでした。論争をするには仏教の事をよく知らないといけないと思ったから。そしてその本がひろさちや先生の本だったのです。当時ちょっとプータローなんかしてた時で、それをいいことに図書館に毎日通い続け、仏教を中心に本を読みあさった結果、ミイラ取りがミイラになったのでした。敗因は「宗教」をすべてひっくるめて観ていた事。つまり、インチキ宗教を非難する時に本当の宗教までも一緒くたにしてしまってはダメだという事なのでした。宗教はインチキなものだけではなかったのです。ひろ先生の本を中心に追いかけて行ったのは、やっぱりとてもわかりやすいのと、新興宗教だけに限らず、今の日本の仏教のおかしさを指摘している所でした。論争の為の知識を求めていたボクの疑問と、それに対する答えがそこにあったのです。

仏教といっても二種類あるのは日本人でもほとんど分かってないのではないでしょうか? 「小乗仏教」と「大乗仏教」なのですが、実はこれはユダヤ教とキリスト教くらい別のものだと言ってもいいようです。でもそれを欧米の人はまったく誤解してる様な所があるのですが、大乗仏教国である日本人実はまったく同じで、例えば釈迦が生まれて死ぬまでの事についての事は小乗仏教の話しで、その後に密教の曼陀羅の如くに広がった大乗仏教の世界観は理解してない様です。「輪廻転生」なんていうものが仏教のものだなんていう誤解は未だに全世界共通ですしね(「輪廻」の考え方は仏教以前からインドにある考え方で、仏教はそれをバックグラウンドに持っているだけなのです)。そのほかにもさまざまな仏教に対する誤解が書ききれないくらいありますね。むしろ日本人が「仏教」というキーワードによって思い浮かぶものは、ほとんど間違った解釈をしてると言ってもいいくらいではないでしょうか。たとえば葬式も先祖供養も仏教とはまったく関係のないものです。

仏教徒になったと言っても、ボクはどこの教団にも所属してないし、実家は仏教ではないのでお寺との付き合いもまったくないです。でも仏教はキリスト教とは違って洗礼を受けたりしなくてもいいらしく、「自分は仏教徒だ」と自覚すれば自由に仏教徒になれると聴いて、それからボクはずっと仏教徒です。