しばらく連載され、うちのトップページからもバナーで紹介させてもらっている
クリスタルアートさんによる
実録ヤフーオークション事件顛末記が一応完成したようです。
……が!終わっていなかったようでした。
実際、盗難に遭われた大西さんは、内容を公開した事によって身の危険を感じています。
#トップページによると、本当に引っ越しも考えているらしいです。
それなのに、お粗末な警察、オークション業者、それに加えてこんどは新聞社ですか……。
まったく言葉も出ません。
まぁ物事は聞いた人によって、見える角度が違ってくるのは当然です。これを書いた記者さんは、警察からの情報で書いたのでしょう。でも大西さんはサイトで公開してるのですから、警察サイドの話だけでなく、大西さんの意見も見て公平に判断できたはずです。
だいたい大西さんがこの件を公開したのは、盗難された事よりもその後の警察とオークション業者の対応の悪さのほうを訴えたかったのでしょう(そしてその結果、盗難品が平気で売られている現状を)。盗難された事に対しての御自分の非も認めている訳ですし。警察も業者も動いてくれないから、しかたなく自分で動くしかしょうがなかったんですよ。
自分の「権利」を守るには、命をかけて守る。これは大原則です。「権利」は必ずお上が守ってくれるものではありません。勝ち取っていくものです。憲法には「基本的人権の尊重」がうたわれていますが、同時にそれを守るために努力をする義務も書いてあるそうです(自分では確認できてませんが……確認できました)。「基本的人権の尊重」にしても何にしても「お上がなんでもして当然」とばかり考える日本人はホントにお気楽です。
昔フランスでは、馬車が道を暴走していたら、腐った生卵をぶつけたといいます。車でも多くの人が乗っていると、必ず暴走するやつが出て来ます。そうすると事故が起こって危険です。歩行者が安全に往来できる「権利」が脅かされる訳です。それでフランス人はその「権利」を守るために卵をぶつけるのです。
あるいはこういう話も聞きました。ある人(日本人)がヨーロッパのまちで路地を歩いていました。すると後ろから車が来たので道路脇へよけました。そこで一緒にいたヨーロッパの人(どこの国か忘れました)が「どうしてよけるんだい!」と非難しました。「私がよければあの車が通れるじゃないか。」というと、「君は間違っている!」と言われたそうです。「ここは人が通る道なんだ。そこで車に道を譲りだすと、そのうち車のほうが我が物顔に走りだして、終いには狭い路地で暴走を始めるやつがでてくる。私達歩行者は「安全に歩く権利」を守るために命をかけて道を譲らないんだ」と言われたそうです。なるほど。この話を聞いて「権利」というものは本当はこういうものなんだなと初めて気付きました(もちろん、これは「権利」を主張する時の話であって、この世の中は「権利」だけで成り立っている訳では有りませんです。念のため)。
暴走車の問題は「道路交通法」によって警察官が取り締まればいいじゃないか、という話しなんですが、実際問題警察が動いてくれるのは、本当に大きな事件だけというのは大西さんの「顛末記」を見ても分かります。だから大西さんは、命をかけて行動し、サイトで公開したのです。すごく勇気がいる事だし、なかなか出来る事じゃありません。
それにしても新聞記者は、警察発表だけを聞いて裏もとらずに記事にするのですかねぇ。実際は大西さんのサイトも見て、記事と違うと分かってて記事にしたそうですが……。記者さんにとっては「小さな記事」にいちいち手間をとって裏をとり、記事を書き直してる時間なんかないのでしょう。そう考えると新聞なんて、どこを信じていいのやら。インターネットの時代、簡単に新聞よりも「本当の事」が手に入る場合も多いのです。自費出版するような手間も経費もかかりません(もちろん「うそ」もひそんでいますが)。
さて、業者側は
こんなお知らせをしています。
健全なオークションサイトを目指すYahoo!オークションは、2001年5月28日に本人確認システム※を導入いたしました。以降、違法出品やガイドライン違反の出品、いたずら入札、落札後に連絡が取れないといったケースは減少し、ユーザー数、出品数やお取り引き数も大幅に増加しました。
-上記リンクより-
まったく、笑えますねぇ。
すると、それまでは今以上に犯罪の巣だったのですね。
第十一条 【 基本的人権の享有と本質 】
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条 【 自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任 】
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
今日は二ヶ月に一度のひろさちや先生の講演会を聴きに行きました。
この講演会は一応シリーズもので、
歎異抄の前半部分(親鸞聖人のお言葉の部分)を一段づつ、浄土真宗の住職さんや大学の講師の方とひろ先生からお聴きして、仏教的な生き方を学び生活で実践しようという会です。
最近ひろ先生はインドに行っておられたとの事で、冒頭にインドの話しをされてました。二十数回インドに行かれてる先生ですが、今回の旅ではあきらかに今までと雰囲気が違ったようです。そういえば、インド内でヒンドゥー教徒とイスラム教徒の抗争が起こって、列車に放火したりして死者が出たと言うニュースを最近聴きました。これまでインドでは、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒はお互い認めあって、穏やかに生活していたらしいのです。テロ以降世界は特に緊張していますね。
今回の先生のお話でも出て来たのですが、仏教国であるはずの日本でも、まったく仏教が理解されていないというお話。まったく同感でした。教科書でも過った認識がされているので無理もありませんが。
仏教といっても「大乗仏教」と「小乗仏教」があり、これは「ユダヤ教」と「キリスト教」ほど違うものです(日本の仏教は大乗仏教です。「浄土宗」も「日蓮宗」も「禅宗」もそうです)。キアヌ・リーブスが出てた
映画「リトル・ブッダ」なんか見ると「こんなもの本物の仏教の世界じゃない!」と思ってしまいます。西洋人の知っている仏教は「チベット仏教」か「禅(ZEN)」だけですね。
一般的に言われる、釈迦が出家して修行して悟りをひらいて人々に教えを説いた。これじゃ仏はただの「悟った人間」じゃないですか。「大乗仏教」の世界では、仏は人間じゃない。「時間や空間を超越した宇宙の意志(宇宙全体)」です(これを「法身仏」といいます)。宇宙そのものである仏が、宇宙の真理を伝えるために人のカタチとなって現れたのが釈迦なのです(これは「応身仏」といいます)。このあたりが、キリスト教の「ゴッド」と「イエス」の関係に似ています。
「小乗仏教」は言わば「エリート主義」です。家や家族を捨てて出家し、苦行を積んで悟りを開く。そんなこと誰にでも出来ません。そういうエリート主義の「小乗仏教」に対して、そんなのはおかしい、仏は全ての衆生(生きとし生けるもの)を救うのが目的なんだ、というので生まれて来たのが「大乗仏教」なのです。
それから「仏教」イコール「葬式」という図式ができてますが、本来「仏教」と「葬式」は関係ありません。これも仏教に対する誤解の一つです。実際今でも奈良の仏教(例えば薬師寺の「法相宗」など)では、それを守って葬式はいっさいやりません。親鸞聖人がお亡くなりになる前、「自分が死んだら鴨川にでも流して魚に喰わせてくれ」というような事を言っておられます(この言葉には感動します。現在生きておられたら「自分が死んだら自分の臓器を他の人に……」というような言葉は言われなかっただろうなと思います)。そして、その言葉に反して墓がつくられ、現在の本願寺になっていくあたり、矛盾にみちておりますが……。結局日本では「世俗化」をしないと残っていけなかったのでしょうか。そして仏教は骨抜きになっていきましたとさ。
宗教の持つ危険性もありますが、宗教を持たない危険性も勿論あります。宗教を持つということは、「世間の物差し」と「神(あるいは仏)の物差し」という価値観を二つ持つと言う事です。そして、「世間の物差し」はあやふやです。戦争時に人を殺すのは良くて、戦争が終わると犯罪。流行の服みたいにコロコロと変わる「御都合主義」で普遍的な原理がない。そして近年、それだけの価値観で日本はやってきた。アメリカの個人主義の上っ面だけ真似をした。アメリカ的個人主義は、個人と個人は「キリスト教」などの「神」によってつながった上での個人主義なのです。そのスタイルだけを真似した日本人は、ただの自分勝手なエゴまるだしの「神なき個人主義」です。その危険性は毎日のニュースを見れば分かる通り。
最後に、有名な聖徳太子の言葉。
—-世間虚仮、唯仏是真—-