今日はドラム道場のレッスンに行く日。電車で往復2時間強。電車ではいつも本を読むか、予習の為に譜面を見たりしている。今日は岡本敏子さんの書いた「岡本太郎に乾杯」を読んだ。岡本太郎の作品は太陽の塔であろうと、絵であろうと、サントリーのグラスであろうと、強烈に訴えかけてくる。まさに爆発状態だ。それは作品だけじゃなく、岡本太郎から発せられる言葉も、強烈なチカラをもって襲ってくる。まだ最後まで読めてないのだけれど、阪急電車のなかで強烈にボクを襲った言葉は次の言葉だった。
芸術は本来、無償、無条件であるべきだ。
「芸術は太陽と同じだ。太陽は熱も光も、無限に与える。
日なたぼっこしても、”おい、あったかかったろう。じゃ、いくら寄越せ”なんて、手を差し出したりしないだろ?」
そう言っていた。
→岡本敏子著「岡本太郎に乾杯」(新潮社)より
南青山のブルーノートの程近くにある「岡本太郎記念館」に行くと、びっくりする事がある。庭に無造作に置かれたオブジェには、囲いも無く「撮影禁止」とも「作品にお手を振れないで」などとも書かれていないのだ。皆実際に作品を触れて、梵鐘を打ち鳴らし、本当に楽しそうに笑っている。コムヅカしい表情を浮かべて顎に手を当てて首を十五度右に傾け……などという、一昔前のジャズ喫茶みたいな堅苦しさはそこには無い(ってジャズ喫茶なんて、行った事ないけど……)。
岡本太郎は絵を売ることを嫌ったそうだ。売られる事でしまい込まれ、財産になってしまうのが嫌なのだそうだ。芸術とは生活に密着した、いや生活が芸術そのものであることを、岡本太郎は訴えつづけたのだろう。それはあの宮沢賢治もまさにそうで、ただ賢治の場合は結局ほとんど理解されずじまいだったようだが。「あんさん、そんな事いわはってもね。あんさんは道楽でやったはるんでっしゃろ?」(「ありがとう」みたいに勝手に関西弁訳・笑)という具合に、「雨ニモマケズ……」なんて言っても、所詮ボンボンやんけ! みたいな感じでその純粋さは届かなかったのよね。当時は。
子供達が遊び、行き交うひとが見上げて笑う、生活の一部となっている青山通りのこどもの城の前にある「こどもの樹」を見ていると、常識の奴隷になって無邪気な子供の様な絵が描けなくなった自分に、たくさんの岡本太郎が降って現われ、全身をくすぐられているようでどうしようもなく楽しい。そうやって岡本太郎さんにくすぐられたくて、今年も「こどもの樹」に会いに行った。なるほど、芸術とは無償で、無条件か……。素晴らしい!