こういう時にはあえて、ちょっと冷静に考えてみると、「戦争反対」と訴えている人のほとんどが、その戦争によって罪の無いイラクの国民が犠牲になるのが許せないのですよね。誰もサダム・フセインを殺す事に反対してる訳ではないですよね。という事は、「人殺しがダメ」なんて言っている訳ではないのですね。「戦争反対」イコール「人殺し反対」ではないというのに今頃気付きました。と言う事は「戦争反対」という人もサダム・フセインを殺すのは認めるという人が多いのでしょう。ただ、関係ない人は殺すなと。それでは大雑把に言ってしまうと「戦争反対」という人も、人殺しは認める、でも殺しても良い人間と殺すべきではない人間がいる、とそういう事になりますね。つまり、死刑を認めるような感覚で。
という事はですよ。例えばその「殺しても良い人たち」ばかりが居る地区や国があると仮定してみて、そこに対してしかける戦争は「認められる戦争」だという事になりますよね。(あくまで仮定の話ですよ!)そういう時に「戦争反対」なんて言えないでしょう。そうすると「戦争反対」なんていう大雑把な言い方が正しいのかどうか疑わしいですよね。だいたい誰が悪いやつで誰が良いやつかをちゃんと判断出来るかっていう大問題があるわけですけれども。
例えば(普遍的な考えの)宗教的な立場で「戦争を反対」してる人は、「フセインも殺すな」と言うと思うのですよ。「殺人」自体を否定してるのだから。それが悪い人であるとかいい人であるとか、そういうのは問題ではない筈です。ただ「神がそうおっしゃる」からそう考えるだけで、それ以上の事がある筈はないのです。こう言うとなんかインチキっぽく聞こえるのでしょうが、それが正しい宗教の立場なのですよね。立場や時代や常識に囚われずに、「人殺しは悪だ」と言えるのが宗教の意義であります。
では宗教団体はどういう声明を出しているのかといえば、やっぱり「戦争のない平和な世界を築くため」なんていう面白みも無いものでありまして、心をまったく打たないものです。(イラクの大量破壊兵器問題の平和的解決と武力行使に反対する声明文)この国自体が「戦争の無い平和な国」である筈なのに、何故にみんな幸せでないのかなんていうポイントを着くようなコメントとかを出すべきだと思うのに。そういう中で菊地成孔さんのコメントは逆に心に突き刺さりますね。本願寺もこういうコメントを出すべきだと思いますがね。
だって戦争が無い世界なんて不可能だし、もしそんな世界が来たらと思うと恐ろしくて恐ろしくて(戦争が無くなった世界での暴力。というのは一体どんなすざまじく煮詰まった物になるか、考えただけで)。なんつって。
→NOIZ BBSより
素晴らしいコメントだと思います。ある意味パラドクスであって、そして毎日の新聞を眺めれば一目瞭然のような。
生野さんがギターを努めるもうひとつのバンドSomethingのライヴがあります。(生野さん、告知が遅くなってすみませんです)
70年代や80年代のブルース&ロック&ポップス?
など、色々です。私も今一解ってません(苦笑)!
洋楽のカバーです?
私は、これまた自由に弾いてます?
2バンドとも2ステージする予定です。
pazapよりかは、普通です・・・(苦笑)?
→ぱざっぷ・びーびーえすの生野さんの書き込みより