パザ日誌

2014年03月25日(火)

カブ

叔父はいつもカブに乗っていた。

仕事でも普段もカブに乗っていた。だからボクは今でも街でカブの音を聞くと、叔父が来たんじゃないかな? とつい目をやってしまう。

叔父はうちの親父(長男)のひとつ下の弟だ。近所に住んでいたので、接する機会は多かった。

小さい頃の叔父のイメージは頑固でおこりんぼ。小学生の頃、釣りに行こうと道具箱からテキトーな針と糸と重りで仕掛けを作っていたら、「何の魚を釣りに行くんじゃ。釣る魚によって針も糸も仕掛けが変わってくるけん、ほんなんではアカン!」と怒られた事がある。テキトーに堤防でウキ釣りをしようとしていたボクは、五月蝿いなぁ……と、こういう時に良く思ったものだ。

理論派で筋を通すタイプの叔父とは、若い頃は何度も言い合いをした。良く怒鳴られたりもしたが、そういう人の本当に優しい面に気付くのは大人に成ってからだ。

ボクが結婚した頃、妻へ電話をかけて来てくれて、「どんなに腹が立っても、朝はぐっと我慢して送り出してやってよ。帰って来てからなんぼでも喧嘩したらええけん」と言ってくれたそうだ。当時車に良く乗る仕事をしていたので、喧嘩をしたまま仕事に出すのは危ないからとの叔父の配慮だったのだろう。

ボクが徳島の実家を出て京都へ出て行く時、最後に叔父の家へ挨拶に言ったら、優しい言葉をかけてくれ、餞別をくれた。車を運転しながら号泣したのを覚えている。ボクと叔父の関係は当時そんなに良くなかった。だから、まさかそんなに優しい言葉で送り出してくれるとは思ってなかったからかもしれない。

若い頃は避けている事が多かったが、大人になってからは、叔父とは親しく接する事が出来る様になった。本来はボクがやらなければ成らない実家の事も全部やってくれて、頼りっきりにしていたし、親父の様な感じだった。うちの娘達も叔父をじぃじの様に慕っていた。事情が有り、ボクは祖母の養子となったので、叔父とは「叔父であり、兄弟であり、そして父親の様な存在」だった。

叔父が亡くなったと連絡があったのは、昨日の夕方頃。今朝、早朝に京都を出発して昼前に実家についた。午後に2週間ぶりに対面した叔父は、まるで眠っているようだった。「今まで本当にありがとう」。感謝してもしきれないくらいの恩が、返せなくなってしまったのが悔しい。

叔父が居なくなってからも、やはりカブの音を聞くと振り返ってしまう。懐かしいあの笑顔に会える様な気がして……。

カブ

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