パザ日誌


2002年3月 3日 (日曜日)----すぎもとともひで

長文失礼!

今日は二ヶ月に一度のひろさちや先生の講演会を聴きに行きました。 この講演会は一応シリーズもので、 歎異抄の前半部分(親鸞聖人のお言葉の部分)を一段づつ、浄土真宗の住職さんや大学の講師の方とひろ先生からお聴きして、仏教的な生き方を学び生活で実践しようという会です。

最近ひろ先生はインドに行っておられたとの事で、冒頭にインドの話しをされてました。二十数回インドに行かれてる先生ですが、今回の旅ではあきらかに今までと雰囲気が違ったようです。そういえば、インド内でヒンドゥー教徒とイスラム教徒の抗争が起こって、列車に放火したりして死者が出たと言うニュースを最近聴きました。これまでインドでは、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒はお互い認めあって、穏やかに生活していたらしいのです。テロ以降世界は特に緊張していますね。

今回の先生のお話でも出て来たのですが、仏教国であるはずの日本でも、まったく仏教が理解されていないというお話。まったく同感でした。教科書でも過った認識がされているので無理もありませんが。

仏教といっても「大乗仏教」と「小乗仏教」があり、これは「ユダヤ教」と「キリスト教」ほど違うものです(日本の仏教は大乗仏教です。「浄土宗」も「日蓮宗」も「禅宗」もそうです)。キアヌ・リーブスが出てた 映画「リトル・ブッダ」なんか見ると「こんなもの本物の仏教の世界じゃない!」と思ってしまいます。西洋人の知っている仏教は「チベット仏教」か「禅(ZEN)」だけですね。

一般的に言われる、釈迦が出家して修行して悟りをひらいて人々に教えを説いた。これじゃ仏はただの「悟った人間」じゃないですか。「大乗仏教」の世界では、仏は人間じゃない。「時間や空間を超越した宇宙の意志(宇宙全体)」です(これを「法身仏」といいます)。宇宙そのものである仏が、宇宙の真理を伝えるために人のカタチとなって現れたのが釈迦なのです(これは「応身仏」といいます)。このあたりが、キリスト教の「ゴッド」と「イエス」の関係に似ています。

「小乗仏教」は言わば「エリート主義」です。家や家族を捨てて出家し、苦行を積んで悟りを開く。そんなこと誰にでも出来ません。そういうエリート主義の「小乗仏教」に対して、そんなのはおかしい、仏は全ての衆生(生きとし生けるもの)を救うのが目的なんだ、というので生まれて来たのが「大乗仏教」なのです。

それから「仏教」イコール「葬式」という図式ができてますが、本来「仏教」と「葬式」は関係ありません。これも仏教に対する誤解の一つです。実際今でも奈良の仏教(例えば薬師寺の「法相宗」など)では、それを守って葬式はいっさいやりません。親鸞聖人がお亡くなりになる前、「自分が死んだら鴨川にでも流して魚に喰わせてくれ」というような事を言っておられます(この言葉には感動します。現在生きておられたら「自分が死んだら自分の臓器を他の人に......」というような言葉は言われなかっただろうなと思います)。そして、その言葉に反して墓がつくられ、現在の本願寺になっていくあたり、矛盾にみちておりますが......。結局日本では「世俗化」をしないと残っていけなかったのでしょうか。そして仏教は骨抜きになっていきましたとさ。

宗教の持つ危険性もありますが、宗教を持たない危険性も勿論あります。宗教を持つということは、「世間の物差し」と「神(あるいは仏)の物差し」という価値観を二つ持つと言う事です。そして、「世間の物差し」はあやふやです。戦争時に人を殺すのは良くて、戦争が終わると犯罪。流行の服みたいにコロコロと変わる「御都合主義」で普遍的な原理がない。そして近年、それだけの価値観で日本はやってきた。アメリカの個人主義の上っ面だけ真似をした。アメリカ的個人主義は、個人と個人は「キリスト教」などの「神」によってつながった上での個人主義なのです。そのスタイルだけを真似した日本人は、ただの自分勝手なエゴまるだしの「神なき個人主義」です。その危険性は毎日のニュースを見れば分かる通り。

最後に、有名な聖徳太子の言葉。
----世間虚仮、唯仏是真----