パザ日誌


2003年7月31日 (木曜日)----すぎもとともひで

みんな大切なひと

市民しんぶんを読んでたら、八月は人権強化月間ということで、「みんな大切なひとなんだ」っていうのを掲げておりました。ある立場から発する言葉としてはもっともなこの言葉。それは認めるとして、違う角度から見てみる、こういう恐さを考えてほしいと思います。ひょっとしたら、前にも同じ様な事を書いてるかもしれないけど。

この言葉に潜む落とし穴は二つ。まづ、「みんなが同じ大切さ」だとしたら、池田小学校の事件の犯人も、「同じ大切さ」なのだね? という事。つまり、「みんなが同じ大切なひとなんだ」って主張するって事は、死刑反対論者でなければおかしいじゃないの? っていう事です。

あとひとつは、「みんなが同じ大切」だっていうのは「みんなの価値が同じ」だって言う事として、「みんなの価値が同じ」だとしたら、その考え方自体がもうすでに「差別的」だという罠です。分かりやすいのは、同じ価値のものを比べれば良いですね。例えば一万円札。これは誰が使っても一万円の価値しかありません。男女、国籍、年収、職業、関係なしに一万円で買えるものは、ちょうど一万円ぶんですね。つまり平等です。価値はまったく同じ。じゃぁ、あなたは身も知らない人の一万円札と自分の一万円さつは、どちらが大事ですか? これはもう聞くまでもない事だと思います。自分の一万円が大切なのですよね。としたら、「すべての人の価値は全く同じなんだ」って言うって事は、実は他人より自分が可愛いと言う事に、そのまま繋がるのです。これは「所有権」の問題ですね。

結局、この「所有権」を放棄しない限り、この問題は解決しないのです。昔はこの「所有権放棄」の考え方がありました。それは、仏壇とか神棚とかですね。うちのおばあちゃんも、誰かからお土産をもらったりしたら、まず神棚に「お供え」をしてました。この神棚とか仏壇に「供える」という行為が、実は「所有権放棄」の行為なのだそうです。仏教だったら、仏さんに対してこのお土産の所有権を捨てさせて頂きます。そして、そのあとで改めて「おさがり」としていただきます。宗教というフィルターを通す事で、所有権を放棄できる訳ですね。仏壇も神棚もただの「位牌置き場」になって、先祖しかそこには居ない現在では、所有権放棄なんて出来やしません。その辺りをちゃんと考えないと、ますます「道徳という落とし穴」に落ちてしまいます。