ちょいと前、図書館で借りて来た映画「初恋のきた道」を、夜中に見ました。
まず、邦題の付けたかにこの映画を恋愛映画として売り込もうとする意図が見受けられるのですが、この映画を単なる恋愛映画とするのは、いささか安易だと思いました。確かに売り込むなら「恋愛映画」というカテゴリーに入れてしまった方が、何かといいのでしょうね。でも、「お涙頂戴な恋愛映画」という先入観を持ってしまって、この映画を観たであろう人達の、この映画への不満がかなり多いようでもあります。「恋愛映画」が苦手なボクは、本当なら観る事はなかったのでしょうが、上映当時にラジオで桂南光さんが絶賛していまして、その話し振りからちょっと気になってたのですが、すっかり観るタイミングを逃しておりました。ちなみに中国語のタイトルは我的父親母親(わたしの父と母)なのだそうで、英語タイトルはThe Road Homeです。
主人公は父の亡くなった知らせを受けて、町から帰って来るひとり息子。この息子の語りによってこの映画は進行します。どうしても夫を町の病院から皆で担いで帰って来るんだという母。その母と父の若い頃の話がカラーになって展開します。現在をモノクロ、過去をカラーでというのも面白いですが、このカラーの部分が本編で、モノクロ部分がモノローグ・エピローグだというのは違うと思いました。むしろ逆で、この映画の本編というのは、やっぱりモノクロ部分だと思うのですね。過去はあんなに幸せだったわ、での今はとっても悲しいの......なんていう、そういう甘い映画にしてしまうのは、この映画をだいなしにしてしまいます。
ストーリーは淡々としていて、別に何でも無い物語を淡々と、バックの美しすぎる程の自然と共に写しています。音楽もライト・モティーフを使用するような事もなく、これまたシンプルで実にいいです。でも、最後には奇跡が起こります。奇跡というのは、死んだ人間が生き返ったり、空中浮遊するのではなく、本当に美しい物語が完成する所です。無理だと思っていた父を担いで帰って来るという事が、村の人々と父の教え子によって完成するという奇跡。これこそが本当の奇跡の物語でしょう。そして、常々、息子に父の後を継いで欲しいと思ってた事が、1日だけ叶う奇跡。これが「1日だけ」というのがポイントだと思います。やっぱり息子にも事情があるのです。もしこれを、最後には本当に教師として息子が帰って来るエンディングにしてしまったら、この映画の価値は随分と変わってしまったんじゃないかと思うのでした。
父と母が居て、その息子が居る。こういう家族のつながりのなかに有る、他人には何でも無い物語。そして、その何でも無い物語の中にある、本当の奇跡。そして、田舎と都会、親の思いと子供の気持ち。地域の風習と近代化。静かなこの映画は、何も起こらないけれども、静かに奇跡を起こして、静かに雄弁に主張するのです。
良いもんと悪もんを二極化させて、ヒーローが悪者を徹底的に叩きのめす様な映画が好きな人には向かないかも知れませんし、ひょっとしたら、現代の都会の若者には理解出来ない映画かもしれません。でも、今ボクが個人的に抱えている問題とも大きく関わる部分が多いせいもあってか、凄くこころに響いて来た映画でありました。
あ、ひょっとしてこの映画の本当の主人公は、亡くなってしまったお父さんじゃないですかね?