パザ日誌

2003年04月12日(土)

「戦争は永遠である」

もうあんまり戦争の事は書かないでおこうといつも思うのだけれど、どうしても書いてしまう。実際今日も違う話題を下書きしてたけど、それを載せるのをやめにした。戦争の話題をインターネットで見ていると、とてつもなく腹が立ち、途方も無く悲しくなり、時には実際に涙を流しながら、ある時は涙も出ない程呆然とさせられる。そういう記事はたいがい海外発であったり、インターネットのページであって、決して日本のテレビ番組でも新聞でもない。

日本のテレビも新聞も視点が対象から遠い。だからそこで本当に何が起こっているのかがかすんで見えにくい。それは従軍記者のリポートでも同じ。これは単に米軍の検閲というフィルターがかかっているせいだからだろうか? それにくらべて海外のリポートは凄まじい。「覚悟して見て下さい」と誘導されたページは、あまりにも悲惨でとても見られないような、頭が割れて顔色をなくした何の罪も無い子供の写真が溢れている。辛い。とても正視できない。でもこれがほんとうなのだ。いや、間違いなく現地はもっと悲惨なのだろう。

従軍記者の書いた記事にも、胸をえぐられるようなものがあるのを今日知った。マーク・フランチェッティというアメリカ海兵隊に従軍した(英国?)記者の「死の橋で一般市民に発砲した米海兵隊」というリポート(ワイドショーでお馴染みの
有田芳生さんの日記の「四月九日(水)」の中に翻訳されたものが紹介されている)。

いくらラムズフェルドが「一般市民の犠牲者は最小限に」って言ってみたところで、それは机上の論理に過ぎないのがハッキリと伝わってくる。このリポートを読んだらそんな戯言も、「これが戦争だ」とか「国益だ」とか「誰が悪い」なんていうのも、全て軽すぎる。力関係の理屈や政治的・経済的な意図があるような理論だけで、この戦争を語るのは、あまりにも身勝手で偏っている。先のリポート中の米軍兵が一般人を殺した時の「でもしょうがなかったんだ」という言葉を聞いたら、ラムズフェルドはどう思うのだろうか? きっとこの兵士もこの日の事を生涯忘れる事が出来る訳が無い。そしてもちろん殺された市民の遺族もそうだ。有田さんの文章が突き刺さる。失われたもの、奪われたものにとって、戦争は永遠である。兵士にとっても住民にとっても。たとえ明日戦争が終わったとしても、それで「終わり」という事は絶対にない。

政治的意図がない、利益とか不利益とかがない、力関係がない、そういう生の声をちゃんと聞かなければいけない気がする。ただそこにあった事実を。それが実際にこの戦争を直接体験してないボクたちがまずすべき事かもしれない。実際に体験してないと言っても、関係のない事ではないという事は忘れてはならないからだ。個人の意見がどうであれ、日本の国家としては間違いなくこの殺戮行為に参加したのである。直接的か間接的か。そんな事はまったく関係ない。

しかし最近思うのは、政治的・経済的な利権や力関係で量られた天秤で、重い方に乗っている人たち以外は、この世では基本的人権は無いに等しいという事。残念ながら、それが現実のようだ。

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