パザ日誌

2003年09月12日(金)

ジワジワと来るヒバクシャ

読書と読書の間に本を読みました。向かい酒ならぬ向かい本? なぁんて、そんなのカッコ良いなぁなんて思って、つい書いてしまいました。実はそんなに読書家ではないのです。今日読んだのは「僕はこうして日本語を覚えた」(デーブ・スペクター:著/同文書院/ISBN4-8103-7540-4)で、これをにはデーブスペクター氏が埼玉県で生まれた事とか、足立区の小学校に通ってたとか、髪を染めてるとか、そういう事が分かる訳です。もちろん嘘ですけど(髪は染めてるのかな?)。


アメリカのいわゆる同時多発テロから二年が経った昨日は、「
ヒバクシャ 世界のおわりに」という映画を観に行きました。京都は河原町の六条あたりにある
ひと・まち交流館 京都という新しい施設の大会議室です。会議室って聞いてちょっと大きめの普通の会議室なのかな? と思ってましたが、入ってビックリ。スクリーンこそそんなに大きくないですが、ちゃんと席が一段ずつ上がってるんですね。多分可動式になってて、必要の無い時には仕舞えるんじゃないかという感じでしたが。観客は五十人弱くらいですかね? 多くもないけれど少なくもないという感じでした。

始まる前にこの映画の監督の鎌仲ひとみさんのお話が暫くあって、それから本編、そして終わってからティーチイン(質疑応答)という構成です。はじめのお話では、この「ヒバクシャ」というのがカタカナ表記なのは「被爆者」と漢字で書いてしまうと日本人被爆者(=ヒロシマ、ナガサキの原爆被爆者)だけの事と思われてしまうというような事、そして「世界のおわりに」という希望も何にも無いサブタイトル(?)は、被爆して死んで行く人達ひとりひとりにとっては、その瞬間に世界がおわるのと同じ意味ではないか、という意味が込められているというお話をされていました。

二時間弱のこの映画はドキュメンタリーなんですが、例えば「ボーリング・フォー・コロンバイン」みたいなエンターテイメント性がある訳でも、そしてほとんど敵陣に乗り込んでいく訳でもなく、淡々とヒバクシャを追っているんです。その事自体には人によっては賛否は別れるところだとは思います。観ている間には、激しい怒りとか悲しみとか憎しみとか、そういうこころの動きっていうものは起こりませんでした。ただ、この映画が扱ってるのは原爆投下によりその瞬間には激しい被爆をしたというような「ヒバク」ではなくて、「低線量被曝」という、例えば湾岸戦争の時にイラクに投下した劣化ウラン弾が、大量に空気中に放出した放射能をちょっとずつ毎日摂取したために、何年か後になって癌や白血病を発症して苦しんでるという事で、この映画はまさにこの通りに、じわじわと効いてくるタイプの映画だと思いました。だから観終えてスカーっとする事もないし、逆にムカーっともしない。ただ、イヤーな違和感が胸の辺りにとぐろを巻く感じがしました。

この映画には大きく分けて「イラク」と「アメリカ」と「日本の原爆投下地域」、それから「日本の多数の人々」という四パターンのヒバクシャが登場します(いや、正確には最後のは登場しません。それは観ているボクたちです)。意外な事に、この映画を見る前の想像とは逆に、一番幸せそうに感じたのはイラクの人たちでした。これが一番の印象です。低線量被曝ですからどこの人たちも状況は同じ様に思えるんですね(少なくとも画面上からは)、でもイラクの人たちは何故か幸せそうだったんですね。ボクの印象では、その理由は貧しいからだと思います。経済的に発展した人々が失ってしまったものがイラクの人たちには残ってるからかも知れません。ただ素直にそう思いました。

イラクは劣化ウラン弾の影響、アメリカは核施設の周辺住民、原爆投下地域の人々は投下直後にはそこに居なくて、その後に入ったために病気を発症してる人たち、そして最後には「普通に日本にすんでる自覚のない人たち」です。この最後のは肥田先生というお医者さんが自ら調べた所によると、日本のある地域では急激な乳ガンの死亡率が増えているのだそうです。それは北海道から東北地方、そして金沢辺りの日本海側にかけてで、これがヒバクによるという因果関係は証明できないにしても、あきらかに異常な増え方なのだそうです。そしてその時期からみてどうもチェルノブイリの原発事故に関係があるんじゃないかというのです。その真相はどうあれ、結局環境問題ってのは国境なんてないんです。空気にのってジワジワと、そしてしらないうちに生物全体を犯して、食物連鎖で摂取し、母乳で受け継がれ、遺伝子を破壊する。この「ジワジワと」っていう目に見えない怖さですね。ハリウッド映画のようにスカっとしない、因果関係もなんだか分からないような歯痒さのこの「ジワジワ」とした映画。でも着実に全世界の生物に広がりつつある「ジワジワ」です。

後の質疑応答とかの話によると、青森の六ヶ所村では核の再処理をするために、普通の原発が一年間で放出する量の放射能を一日で放出するのだそうです。原発には何故かエントツがありますが、あれは大気中に「人体には影響のない量の放射能」は放出されているのだそうです。知らなかった……。

この映画に出てくるヒバクシャの人たちは、何のためヒバクしてこんな辛い思いをしてるのか? そう思う訳ですが、ボクが思ったのは、これは全て「国益のため」だと思うんです。みんな国益の被害者です。映画中に肥田先生が「政治っていうのは、目的のためには犠牲をだしてもいいと思っている。それが政治っていうものだ」というような事をおっしゃってて、それがこころにしみました。

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