パザ日誌

2003年11月08日(土)

朝から講演会

ボタンの屋根の五重塔

朝十時半から、西本願寺聞法会館の三階多目的ホールでひろさちや先生の講演会があるというので出かけました。この会場の存在は知っていたのですが、入るのは初めてでした。宿坊みたいな所だと思っていたら、結婚式も行われるような宿泊施設でビックリでした。西本願寺が経営するホテルって所なのでしょうか?

ひろ先生の講演会はもう三十五回以上は聞いてるんですが、今回はその中でも一番人数が多かったです。いつもは二、三十人って所なので、十倍以上の人だったと思います。主催が京都府仏教連合会だったり、料金が無料だったりというのも関係してるのかも知れませんが。

タイトルが「われら ほとけの子」という事で、ひろ先生らしく、それでもいつも以上に難しい話は徹底的に無しというのは流石だなぁと思うのでした。いわゆる学者という肩書きをも持つ人が、ここまで専門用語もほとんど使わずに、面白おかしく仏教の話が出来るというのが、ひろ先生の本が支持されている所以だと思います。今日も「ひろさちやベスト」と言っても良いくらいのネタのオンパレードで、随所に笑いもとってましたです。

ただ話が面白くて、専門用語を使わないといっても、内容は深いっていう所がやっぱりポイントで、実践してみろ! って言われたらとても難しいんですね。たとえば、ひろ先生がいつも言われる「分らない事が、分らない事だと、分る事が、分る事」という言葉の様に、分るようで分らない——または、実践するのが難しい——感じがあるんです。例の宅間死刑囚の事件にしても、戦争の事にしても、結局その事の意味というものはボクらには分らない。考えても分らない事っていうのは、「分らない」というそのままに受け取るしか方法がない訳なんですが、実はそれはとても難しい事なんですね。人間は色々と考えてしまうものですから。

この手の話は、ひょっとしたら誤解されてしまう事があるんじゃないか? って思う所もある訳です(今日そういう人が居たというのじゃなくて)。それは、「宗教」の話をしているんであって、その前提が理解出来てない人が居るって所です。例えば池田小の事件や戦争の事にしても、この前提が違えば、そこから出てくる結果が違うのは当たり前の話です。宗教という問題を、道徳と同類のものと勘違いしてる人がかなり居るんですが、この二つはどっちかっていうと正反対といっても良いものなんですね。この前に読んだひろ先生と養老孟司 先生の対談なんかの食い違いは、まさにそこの所が浮き出てて、ひろ先生はそこを浮き出させるためにあえて誘導する発言をしてるんですが、あれ、まったくそういう所を考えない人が読んだら、かなり誤解される対談だよなぁ……と思ったわけです。今日の講演も——いや、今日に限らずなんですが——そこの所で誤解された人も中には居たんじゃないかなぁ……とちょっと思ったりもしました。大体日本人は宗教というのを正しく理解してないですからね。

写真は講演会の帰りに、ボタン屋さんの前に飾ってあった、屋根の部分がボタンになってる五重塔です。

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