パザ日誌


2003年1月21日 (火曜日)----すぎもとともひで

練習スタジオにて

たまには練習風景の写真などを......。
どらむせっと

普段は勿論スタジオ備え付けのドラムセットです。まぁボクはマイ・ドラムセットなんか持ってないんですけどね。セットは欲しいんですけど、どうせ家でなんか叩けないし、スタジオにはいちいち持ってけないし、ライヴでもワンマンとかやれるバンドになれば持ち込みも考えますが......いつのことやら。

最近MDウォークマンで練習の音などを録音したりしてるんですが、マイク(ウォークマン用みたいなちっちゃいのでクリップ付きのヤツです)をスピーカーの近くの高めの位置にセットして録音してたら、近くに有る時計の秒針を刻む音を「コツコツ」と拾ってしまうので、今回はあまってるマイクスタンドに付けてみましたのです。これは成功。まぁエアコンの音を拾うのはお決まりなのでいいのです。大体本格的な録音ではないし、クリップして歪んだりもしてるし、確認用にはこんなもんでしょ、という感じです。

そして次の暗くて見にくい写真は、今のシーケンス・マシンです。
PowerBook1400c

YAMAHAのQY700からPowerBook1400cへと変わりました。シーケンス・ソフトは勿論Visionです。Freeになってキー損失の心配が無くて最高です。Midiオンリーなら、曲作りには他のを使ってても、ライヴの時だけVisionを使うっていうのはかなり使える使い方だと思いますね。余ってるノートとか中古でも安いのとか使えば、投資は少なくて済みますしね。ハードディスクのクラッシュさえ無ければQY700よりは使い勝手は格段にアップしたと思います。QYの頃は練習中に「じゃぁサビからもう一回!」なんていうのが邪魔くさかったのですが、今ではマーカーをビシバシと打って有るので、どこからでもかかってこんかい! って感じです。曲のストックにしても、曲の長さにしても一気に心配は無くなってしまいましたし、Qy700のプアーな音源部からも解放されて良い感じです。勿論QYはQYで良いんですけどね。

走馬灯の時

ある人が居て、二十歳の頃急いでいた為に街角で出合い頭に人とおじさんとぶつかってしまいました。ビックリしてちょっと立ち停まって「すいませんでした」と謝った。そんな事がありました。長い人生の中で考えるとそんな事、無かったも同じ様な些細な出来事。八十歳に成って温かい家族に看取られて最後の息を引き取ろうとした時、走馬灯の様に自分の一生を見ました。現実の時間で言えばほんの一瞬の間の、ちょうど息を静かに吐いた位の時間に、一生の一秒一秒が手に取るように駆け巡ります。自分が祝福のもとに生まれ落ちた時から、今息を引き取ろうとしてるその八十年間の一瞬一瞬を、体全体で感じます。柔らかい光の中でやさしい音のない声が聴こえて来て、二十歳の頃の忘れて居たそのささやかな出会いの瞬間も見えます。その時初めて解るのです。もしあの若い時にあのおじさんと出合い頭に衝突しなければ、そのあと自分が飛び出して来た車にはねられて命を失っていたであろう事を......。

そういう走馬灯の瞬間が本当にあるかどうかボクにはおし測る事も出来ませんが、もしそういう事があったなら......なんて今日はボーっとしている時(いつもそうだっていう話しもありますが......)に考えてしまいました。人生の最後に解ける種あかしみたいな事。しかもそのひとつだけでなくて、もう数えきれないくらいに同じ様な奇跡が知らず知らずに起こっているのかもしれません。

よく事故に遭ってしまった飛行機とかに実は乗る予定だったんだけど、何か急用が出来たりして一本遅らせたから助かった、なんていう話しを聞いたりする事があります。実際にはその人が乗っていたら何かの運命が変わって事故にならなかったという可能性もある訳ですが、そういう事を置いておいても、その事故が実際に起こってしまった事があるから「命拾いした」という実感があるだけで、その人がその事故の事実を知り得なかったとしたら、ただ用事が出来て一本飛行機を遅らせただけとしか認識せずに一生を終える訳です。そう考えると本当にボクたちの生活の中で、自分が知らず知らずに助けられたり助けたり、何の縁もゆかりもない人達に支えられて生きているのではないかとも思えて来るものです。勿論助けよう、支えようなんて思って行動してない事が、知らず知らずに結果的にそうなっているような感じで。無意識に当たり前に動植物の命を取って食べているように。自分が受験に合格した時には、必ず誰かが不合格の人が居るような。顔も見た事のないその不合格の人が、実は今朝通勤電車で肩を並べてた人だったりとか。そういう事は必ずあるような気がします。そう考えると、自分は自分で生きているんだなんて、そんな事を考えてしまっている自分が傲慢に見えて来たりしてきます。そんな事に思考を巡らせている今という時も最後の走馬灯で懐かしく確認出来る時がくるのでしょうか。